
不耕起栽培を始めて以来、僕たちは「土を育てる」という言葉の重みを、身をもって感じてきた。一般的な農業では、作物を育てることが中心に据えられる。しかし、僕たちが日々畑に立って感じるのは、作物はあくまで“土の状態の表れ”であり、本当に向き合うべきは「土」そのものだということだ。
土はただの黒い粒ではない。その中には目には見えない無数の生命が息づいている。はちいち農園の畑では土1gの中から8.5億の生きた細菌が検出された。
細菌や菌類、ミミズ、微細な昆虫たち。彼らが分解し、蓄え、循環させることで、土は“生きている”状態を保っている。土を育てるというのは、この生きものたちとの関係を丁寧に育んでいくということに他ならない。
土壌の再生とは、失われたものを取り戻す営みである。長い年月をかけて過剰な耕起や化学肥料の使用によってバランスを崩してしまった土は、見た目には問題がなくても、内側に静かに疲れを抱えている。私たちが耕さないという選択をするのは、土の力を“信じる”からに他ならない。自然のプロセスを信頼し、手を加えすぎないことで、土本来の力が目を覚ましていくのを見届ける。これはもう「再生」というより「回復」であり「信頼」のプロセスだ。
回復した土には、香りがある。微かに甘く、深く、あたたかい匂い。それは腐敗の匂いではなく、発酵の気配である。発酵は生命の営みの連なりだ。微生物が分解し、変化し、次なる命へと橋渡しをしていく。そうした循環のなかに自分たちが立っていると思うと、畑という場がまるで呼吸しているように感じられる。
土壌の再生はまた、人の意識の再生でもある。かつて「収量」「効率」「収益性」といった指標ばかりを見ていた人間が、今では「土の色や香り」「草の種類」「虫の活動」といったものに目を向けるようになった。人が見るものが変われば、農のかたちも変わっていく。僕らがが選んだこの営みは、農業というよりも「暮らし方」の表明でもあるのだ。
たとえば、ある年の冬。オーツ麦の根が深く入り込んだ畝を、そのまま春までそっと見守ったことがある。春になって麦を刈り倒し、その根を残したまま次の作物の種をまいた。すると、表層の土はふかふかで、保水力も高く、虫もよく動いていた。耕さなくても、土は自然と耕されていた。その様子に、私たちは深い感動を覚えた。何かをしなくても、すでに土は働いていたのだ。
このような経験が重なるたびに、再生とは「戻すこと」ではなく「委ねること」なのではないかと思うようになった。再生とは、コントロールを手放すこと。人が主導権を握るのではなく、自然のリズムを信頼し、その流れに自らを委ねること。それによって初めて土は回復し、息を吹き返す。
僕たちが見つめているのは、単なる農地の改良ではない。そこには「いのちがいのちを育てる」という根本的な循環の哲学がある。この循環が壊れたとき、土は痩せ、作物は弱くなり、人の暮らしも不安定になる。逆に、この循環が丁寧に守られるとき、土は再び豊かさを取り戻し、そこに立つ僕たちの暮らしにも安心と手応えが戻ってくる。
土を見ていると、人のこころともどこか似ていると感じる。踏み固められ、掘り返され、手を加えられすぎた土は呼吸を忘れてしまう。けれど、そっと寄り添い、無理のない手当てをすれば、少しずつほぐれていく。時間はかかるかもしれないが、確実に“戻ってくる”。そう信じられるようになったのも、この営みのおかげだ。
この「土壌の再生」という哲学は、農業に携わる私たちだけでなく、あらゆる人に開かれていると感じている。日々の暮らしの中で、少しずつでも「元に戻す」「整える」「寄り添う」という意識を持てたら、それだけで私たちの社会全体が変わっていくのではないか。自然は、人間が思う以上に、僕たちを待ってくれているのかもしれない。
今日も僕らは、畑に立ち、土に触れながら、その声を聞いている。そして、その声に応えるように、静かに、耕さない営みを続けている。

